2008年8月31日日曜日

2008 0831/2000年の其の4の① 『接触プレーがいやなら、卓球とか、テニスをするのが良い』/ ミョンボ語録


 
2000年4月29日の第9節、セレッソ大阪戦で1-4と大敗を喫した柏レイソル。
 続く5月3日の第10節、柏サッカー場で行われたジェフユナイテッド市原との試合は2-1で競り勝ち、残り試合はいよいよ5試合になった。

 ここまで10試合を消化して7勝3敗。順位は6位で勝ち点は17。首位のジュビロ磐田の勝ち点は20だった。逆転優勝の条件は絶対に取りこぼしをしないこと、首位との勝ち点差「3」を広げられないことだった。
 そして11節。5月6日。アウエーのヴィッセル神戸戦を迎えた。

 前日の5日。新幹線で神戸に入り、そこから宿舎までバスで移動。
 バスの移動の車内ではヨーロッパのリーグ戦のシーンが流されていた。
 激しいボール際での競り合い。勇気を出して飛び込んだ方がボールをキープできると信じ、そして激突、歪むプレーヤーの顔。痛みを隠しきれない表情。

 選手達にしてみれば、ごく当たり前の映像だ、と思っていたかも知れない。当然のことだと。ただ、ミョンボは、「試合でこういったプレーが、実際に出来るだろうか? 11人が全員、このビデオの様にファイトしてくれたら負けないのに」と考えていた。

 元々、サッカーとはそういうスポーツなのだ。ボディコンタクトを恐がっていては勝つことが出来ない。
 ミョンボはつねにインタビューに対してこう答えていた。「柏レイソルには若く、才能のある選手が多い」と

 ただ、いつも付け足していた一言があったのは事実だ。

 「………だけど、精神的に弱いところがある」と。


【続きは明日です】
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2008-08-31 01:47  nice!(0)  コメント(0)  





2008年8月30日土曜日

2008 0830/柏の金龍園/ミョンボ語録


  すでに一昨日の話になってしまいましたが、柏にある焼肉屋さん「金龍園」に久しぶりに行って来ました。
  この金龍園に来ると、いろいろな事がよみがえります。

 2000
年にミョンボがキャプテンになったあと、チームを一つにまとめなくては………とミョンボ主催の決起集会の場だったし、2001年に柳想鉄(ユ・サンチョル)がレイソルに移籍してきたとき、「いち早くチームにとけ込ませよう」との歓迎会もここだった。200112月、ミョンボが帰国する日の前日、名残惜しい時間を夜更けまで過ごしたのも、やはり、おなじくここだった。
 お店に入って左奧の座敷席が普段の指定席。決起集会では入口右側、道路に面した辺りがキャプテンのポジションだった。

 レジの横には思い出の写真。ミョンボがレイソルを離れる時に、お世話になった方々へ感謝の気持ちを形にと、写真パネルを11個、作りました。ささやかな贈り物です。その一枚が飾られています。

 その写真は、1999年ナビスコカップの準々決勝、日立台で行われたジュビロ磐田戦。藤田俊哉に決められ0-1。敗色濃厚の試合、ロスタイム、長谷川太郎のシュートを相手GKがキャッチ出来ず、こぼしたところをミョンボが押し込み1-1の同点とした直後のシーン。
 両手を広げ喜びを最大限に表現しているかのようなシーン。この写真を大きく引き伸ばし、ゴールドのペンでサインをしてパネルを作ったんです。その一つひとつに手紙を付けて、韓国に帰る直前、感謝の気持ちを込めて手渡しました。
 写真の中の選手は誰も年をとらないし、見ているうちにその試合も、昨日のように思い出されてしまいます。
 藤田俊哉の巧い右足アウトサイドのトラップから、実に滑らかに左足シュートを決められたシーン。同点ゴールを演出する強烈なシュートを打った長谷川太郎……交代で入る直前、タッチライン沿いで交代を待ちながら、モモ上げ・ジャンプを繰り返し、何かを起こしてやる、と強い気持ちとともにピッチに走っていった姿も、鮮やかに思い出します。
 9年も前のことです。だけど、たまには、そんな思いに耽るのも悪くないでしょう!?

Takahashi KENT/高橋建登
2008-08-30 14:33  nice!(0)  コメント(0) 

2008年8月29日金曜日

2008 0829/2000年の其の3の③ 『日韓戦から帰ってきたら、どうやっても集中力が上がらなかった』/ミョンボ語録





そして第4節では清水エスパルスと対した。 清水エスパルスも3試合を戦い3勝をあげ勝ち点9、得失点差で4位だったが、全勝同士の対戦で、序盤のヤマになる試合だった。 しかし、ミョンボはこの試合に出場することが出来なかった。

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 ソウル・蚕室で行われた韓国対ブラジルの親善試合のため、韓国代表チームに召集されたからである。
 韓国代表対ブラジル代表。この親善試合は1999328日にソウルで行われた。

 自国以外の国のチームに所属する選手が代表チームに召集された場合、FIFAの規定に基づいて返す義務がある。
 ミョンボは韓国代表の試合の3日前、柏レイソル対清水エスパルスの2日前の25日午後130分発のアシアナ航空OZ1013便でソウルへ移動した。
 まだ寒い韓国の気候。蚕室スタジアムは冬枯れた芝生を緑色に着色して、この試合を迎えた。
 試合は終了直前の89分に、当時ヴィッセル神戸に所属していた金度勲(キム・ドフン)が決勝点をあげ、韓国が1-0でブラジルに勝利した。

 この決勝点に関してもミョンボは決定的な仕事をした。韓国の右サイドから、ブラジルが速攻を仕掛けていた状況だったが、ミョンボが鋭い読みからブラジルの攻撃をカット。素早く前線へつないだ。このボールの流れを密かに、また、確実にうかがっていたのは金度勲だった。DFよりも一歩早く自分がシュートを打てる絶好のタイミングを見計らい爆発的なフリーランニング。ここにボールを合わせた崔成勇(チェ・ソンヨン=ヴィッセル神戸・当時)も見事だった。金度勲のシュートはグラウンダーでゴール右隅に飛び込んだ。
 史上初、韓国はブラジルを破った。

 この韓国対ブラジルの前日、27日の清水エスパルス戦は柏レイソルにとっては悔やみきれない敗戦になった。ミョンボのみならず、ストイチコフを欠いたこの試合。1-1の同点から延長に入った95分にCKから失点、Vゴール負けを喫した。
 優勝に近づく一つの機会を逃した。
 この後レイソルは、セレッソ大阪に0-3、ジュビロ磐田に0-1と破れた。
 このステージ15試合の結果は105敗だったが、5敗のうち3つがこの連敗中だった。

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 そして20004月。水曜日の蚕室スタジアムでの日韓戦の3日後、土曜日。1stステージ第9節、長居競技場のセレッソ大阪戦も同様の結果になった。
 韓国での代表マッチ帰国セレッソ大阪戦と順序まで一緒だった。

 開始8分に西澤明訓に失点し0-1とリードされたが28分に北嶋秀朗が決め1-1の同点に追い付いた。
 後半に勝ち越しのチャンスをうかがっていた58分、速攻から森島寛晃に決められ1-276分に再び森島。82分には交代出場の真中靖夫にファーストタッチでゴールを決められ1-43点のリードを許し万事休す。ワンタッチでボールをつなぎ突破を計る、セレッソの速攻に付いて行くことが出来なかった。

 「日韓戦から帰ってきてから集中力がどうしても上がらなかった

 柏へ帰る新幹線の中、ボソッと、悔しそうに、そして残念そうに、語った。

2000 其の2 終わり
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2008-08-29 01:00  nice!(0)  コメント(1) 

2008年8月28日木曜日

2008 0828/2000年の其の3の② 『日韓戦から帰ってきたら、どうやっても集中力が上がらなかった』/ミョンボ語録



韓国の代表監督にとって日韓戦は、自らの墓場になる危険性を常に持っていた。 実はこの時は日本も同じだった。あちこちからトルシエ更迭論が出ていた。
「新代表監督はレイソルの西野朗監督」との見出しが有力紙を飾っていた。

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 この試合に臨むに当たって、韓国チームの課題は「日本の中盤をどう崩すか、そして日本の中盤の攻撃をどう防ぐか」という点だった。
 日本の短所も長所も知り尽くしている、Jリーグでプレーしている選手たちがはじき出した結論は、中盤を省略、ロングボールを多用する戦術だった。

 まともに日本チームの中盤と、パス回をしては勝てない。
 一昔前の戦術かも知れないが、この作戦は日本の中盤に対しては大きな効果があった。

 戦術が進歩しない、むしろ退歩ではないか、という批判もあったが、この試合で韓国チームに最も求められていたのは「勝つこと」だけだった。
 試合はこの作戦が当たった。この戦術が日本の中盤に対抗するには最も効果的だった。そして日本のDFラインを崩すのにも効果的だった。
 そして後半39分、河錫舟(ハ・ソッチュ=ヴィッセル神戸・当時)のミドルシュートが楢崎正剛の守るゴールを割った。シュートは左ポストにあたり、さらに右ポストに当たり、そして、日本ゴールに飛び込んだ。

 試合後、多くのインタビューを受けた。
 「なぜ一昔前のサッカーだったのか」
 ミョンボはあっさりと答えた。

 「勝つためのサッカーをした」

 許丁茂監督の進退をかけた試合。最も有効な方法で日本に勝った。

 満員の蚕室スタジアムでは、終了2分前から「イギョッタ、イギョッタ」(勝った、勝った)の大声援が耳に響いた。
 スタジアムにはいろいろな横断幕が張られていた。そのひとつも「洪明甫」とハングルで書かれた横段幕が、黄色と黒のレイソルカラーで書かれているのが印象的だった。

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 ミョンボが韓国代表の試合に出場すると、決まって柏レイソルは苦戦した。

 1999年の1stステージ。開幕戦で京都パープルサンガを1-0。第2節はアビスパ福岡を4-1、第3節は横浜Fマリノスを1-0と破り開幕3連勝を飾っていた。この時点で、首位の鹿島アントラーズ、2位のジュビロ磐田と同じ勝ち点9をあげ、得失点差でわずかに下回り3位につけていた。 そして第4節では清水エスパルスと対した。

 清水エスパルスも3試合を戦い3勝をあげ勝ち点9、得失点差で4。全勝同士の対戦で、序盤のヤマになる試合だった。
 しかし、ミョンボはこの試合に出場することが出来なかった。
 韓国代表対ブラジル代表の親善試合に召集されたのである。

【続きは明日です】
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2008-08-28 10:54  nice!(0)  コメント(0) 

2008年8月27日水曜日

2008 0827/2000年の其の3の① 『日韓戦から帰ってきたら、どうやっても集中力が上がらなかった』 /ミョンボ語録





 2000年シーズンは中盤戦に入っていた。

 48日の第6節で京都パープルサンガを延長の末、2-1で破りチームは2位に浮上。
 続く15日の第7節は首位に立つチャンスだったが、アビスパ福岡に0-2で破れ、逆に4位に順位を下げた。
 それでも22日の第8節では横浜Fマリノスを延長の末、3-2で破り再び上昇気流に乗ろうかという勢いだった。

 次の第9節の相手はセレッソ大阪。
 昨シーズン2ndステージの0-3での敗戦の借りを返す機会が来たはずだった。
しかしそれまでのミョンボの日程はかなりハードだった。

 22日(土) 試合
  午後3時。柏の葉競技場でJリーグ第5節、横浜Fマリノス戦。延長3-2の勝利。

 23日(日) 移動
  1240分成田発、ソウルへ移動。

 24日(月) 練習
  韓国代表チームに合流、トレーニング。

 25日(火) 練習
  韓国代表でトレーニング。

 26日(水) 試合
  午後7時。ソウル・蚕室(チャムシル)のオリンピックスタジアムで日韓戦。

 27日(木) 移動
  ソウル成田、帰国。柏へ戻る。

 28日(金) 練習・移動
  10時練習、1245分に柏出発・大阪へ移動。

 29日(土) 試合
  午後4時。大阪・長居競技場でJリーグ第6節、対セレッソ大阪戦。

 通常のリーグ戦の試合の他に、自国の代表試合に出場しなくてはならず、また、そのために負担が増えることは代表選手の宿命なのだが、ミョンボの場合は両チームのキャプテンという立場のため、その精神的な負担は非常に大きかった。
 しかも、今回の日韓戦は絶対に負けられないという試合だった。
 なぜならば代表監督の去就問題が絡んでいたのである。

 当時、韓国国内では代表チームの許丁茂(ホ・ジョンム)監督の去就問題を巡っての議論が沸騰していたのだった。
 1998年に例を見ない公開選考会の結果、韓国代表チームの監督に就任していた許丁茂監督だったが、当時、解任すべきとの声が上がっていた。その最大の理由は、99年に行われた五輪代表チーム同士の日韓戦で1-40-1と連敗を喫していたことからである。
 それは東京・国立競技場での第1戦を1-4の大差で落とし、韓国・ソウルでの第2戦も0-1で敗れるというショッキングな連敗だった。

 今回の26日の日韓戦は許丁茂監督にとっては極めて重要な試合だった。ここで日本に敗れ、韓日戦3連敗を喫することになれば更迭される可能性は相当高かった。さらに、許丁茂監督のみならず、韓国サッカー界にとっても「負けることは許されない」試合になっていた。

 日韓戦で韓国が日本に敗れた場合、監督が更迭されることは珍しくなかった。1974928日、東京・国立競技場で行われた第3回の日韓定期戦で韓国は1-4で大敗を喫した。この敗戦の結果、韓国代表のコーチングスタッフのみならず、サッカー協会の幹部までが辞任した。
 さらに197934日に行われた第7回日韓定期戦は1-2で韓国が敗れたが、この敗戦の後、監督が解任されている。
 韓国の代表監督にとって日韓戦は、自らの墓場になる危険性を常に持っていた。

 実はこの時は日本も同じだった。あちこちからトルシエ更迭論が出ていた。
「新代表監督はレイソルの西野朗監督」との見出しが有力紙を飾っていた。

【続きは明日です】
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2008-08-27 01:00